ヨガタイム(仮)
私を私たらしめるもの。
それは生き甲斐や人生の目標、はたまた生きる意味でもある。
それは何かと問われたら、いわずもがな。
私の推し、橘真琴。
【推し】
推し(おし)とは、主にアイドルや俳優について用いられる日本語の俗語であり、人に薦めたいと思うほどに好感を持っている人物のことをいう
(Wikipedia引用)
実際意味を調べると私の中の推しはこの推しの域を超えているように思う。
人に薦めたいほど交換持っている人物でもあるが、それ以上なのだ。
私の中の真琴君は好感を持ち応援したい存在でもあると同時に、小さいころから見守っていた親戚の子供のような存在でもあり、すべてを包み込むような全人類の母的存在でもあり、空気であり、この世界を構成する要素であり、つまりは全体世界。ヨガ的に考えるのであれば、橘真琴は自分自身であり全体世界。ブラフマンでありアートマー。
だとすると、私自身も彼であり私を取り巻く人、環境すべてが橘真琴だということになる。
これは仮定であるが真理。
私は一つの結論にたどり着くのです。
「そうか。
この世界は、真琴くんだったのか・・・」
過去に友人と「例えばマコちゃんが腋臭で禿だったどうする?」と聞かれたことがあるが、本人が改善したいのであれば全力で支援するし、そのままで構わないなら私は一生鼻栓をすると答えた。
他人や環境を変えるということはつまり真琴君を変えるということ。
それは違う。
私はあの神聖な存在に関与してはいけないモブ。
善良なモブおじさん。
私にできることはお布施をすることと善良なモブとして恥じない行いをすることのみ。
どのような行いをすればいいかはヨガ八支則のヤマ、ニヤマを参考にするとよいだろう。
寒い日も、雨の日も、これがこの世界を構成する推しだと思うと嫌な気もしない。
推しがいるだけで世界は輝く。
これが人生の幸福度を上げることだとするならば、ヨガ哲学とはつまり推し活といっても過言ではないのだろうか。
言い換えるならば、推し活をしたとき「ヨガタイム」と言えなくもない。
これ以上話し続けるとその業界の方たちに怒られそうなので本日はこの辺で。